役に立つ記事と、私的な記事
人様の役に立つ記事を書きたい。
だけど、記事を書くたびにすごく私的な内容になってしまう。
これは、対象となる読者像が明確ではないからだろう。
僕だって、「読書に関する回想」ではなく「効果的な読書法」のほうががウケるということは分かってる。「忘れたくても忘れられない超読書法」とかね。
読書法だったら読書についての知識を得たい人が対象になる。
だけど、回想だと僕自身と、読書にまつわる思い出を集めるような殊勝な人しか響かないだろう。
なんで「読書法」を書かないのか。理由は簡単、書けないから。
「回想」を書くのはなんでだろう。
文章を書くということは、記憶に密接に結びついているからだろうか。
「読書法」を書くための前段階として役立つとも思う。
僕が読書法を探していたときは、個人の体験に根差した記事に価値を感じた。
だから、「回想→仮説→検証」というサイクルで、少しずつ思考を深めていくのも良いかもしれない。